ペスト大流行のお陰で思索を巡らす時間を得たアイザック・ニュートン
コロナが流行して数年が経ちましたが、この影響で世の中の考え方が色々と変わったと思います。
私からしたら、コロナの世はとても心地良かったです。
外交的で人が好きな人にとってはコロナ禍が辛く感じ、内向的や思考を巡らせたいタイプなんかは割と落ち着いて過ごすことができた数年なんじゃないかな?と思ったりしてます。
学校でいじめられてた子なんてさぞかし嬉しかったろうに。
今日はひょんなことからアイザック・ニュートンについて調べていたのですが、ウィキペディアで面白い文を発見しました。
ニュートンの学生時代にペストが大流行したのらしいですが、そのお陰でニュートンはカレッジでしなければならなかった雑事から解放されて、自由に思索を巡らす時間を得ることができたというのです。
私なんかでも、労働から解放されて、自分が考えたいことだけを思う存分に考える時間ができたらどんなにいいことなのだろうとよく思うことがあります。
(それが役立つことであれ役立たないことであれ)
このように感じている人は多くいるのではないでしょうか。
ニュートンはペストが大流行したおかげで、その間に思う存分自由に時間を使うことができるようになり、万有引力、光学、微分積分の着想に没頭することができたということです。
ニュートン、さぞかし嬉しかっただろうなと想像を膨らませたエピソードでした。
私は明治維新以前のほうが生きやすかったのかもしれない。
最近日本の食の歴史を調べるようになりました。
まだまだ知らないことは沢山ありますが、最初の肉食禁止令は飛鳥時代で、それ以降繰り返し出されてきたとのこと。
肉食を忌み嫌う意識が最も強かったのが、江戸時代ということですが、有名なのが徳川綱吉ではないでしょうか。
「生類憐みの令」を出し動物はもちろん、金魚や虫まですべての命を尊重せよというものです。
この綱吉ってなんというか間抜けな政策をするというイメージを持ってる人も多いのではないかと思います。
実際に子供のころに学校で習ったときには、すごく変わり者的な感じで教わりました。
しかし、捨て猫や野犬の保護を大規模でやっていたり、病人や捨て子捨て老人にも寛容だったということで、現代ではもっと評価をされてもいい人物だと思うのです。
私が日本の歴史を調べるようになったのは、本当にここ最近です。
なんか勝手につまらないと思い込んでいたんですよね。
全然そんなことはなかったという。
色々と行き詰まり感のある世の中。
これからを生きるヒントは科学とか統計とかそういったものではなく(もちろんそれも大事だが)、日本古来から根付く感覚、日本の過去にあるのではないかと確信しています。
それを思い出す必要があるのではないかと。
明治維新といえば、歴史に詳しくない自分でも、日本にとって素晴らしい改革だと思い込んで生きてきた。
なにかを詳しく調べたわけでもないのに、そう思い込んでいたということは、やっぱり歴史の授業や、テレビ、ドラマなどでそう刷り込まれていた部分が大きいのではないかと思う。
一度も疑うこともせず、そういうものなのだと受け入れてきてしまったのですが、違う角度から見ることもできるのだということを知ります。
今に至ってしまったことは、欧米化の波に乗らないと、日本がとんでもないことになってしまうので、しょうがないことだったのだとは思います。
明治維新以降の日本は欧米から日本を守るための武装だったと考えてもよいのではないでしょうか。
しかし、やっぱり明治維新以前の古来から受け継がれてきた日本の精神というものは、精神世界に偏りがちな自分にとってはとても魅力的に見えます。
もちろんいいところばかりではなく、目を覆いたくなるような事実もあるでしょう。
私は生まれて数年とかで社会に組み込まれた時点で息苦しさをずっと感じて生きてきたのですが、やっぱりこれって普通じゃないと思うんですよね。
心の底ではずっとそう思っている。
私にとっては世の中が灰色に見えていました。
最近になって色々と調べ始めて、今の世の中は、長く続いてきた日本とは違った精神の世界なのだとようやくわかってきた。
なんか歴史を調べるとか以前に、急に脳の神経が全部つなぎ変わって、思い出すみたいなことがあったんですよね。
一瞬で今まで自分が信じてきた世界の常識が、そうではないということがわかった感覚があったのです。
たぶん遺伝子レベルでは違和感に気づいていて、頭で知ろうとしなくても、ある時期には思い出すようになっているんじゃないだろうか?と思ってたりなんかする。
まだまだ色々な問題からはなかなか抜け出せそうにはありませんが、自分の頭で考えて物事を選択していこうと思う。
昆虫食と食糧危機について思うこと。
最近昆虫食の話題を度々目にするようになりました。
地球の人口増加にあたって、今後食糧危機が起こるかもしれないということは前から言われています。
そこで今後普及するのではないかと言われているのが昆虫食です。
私は虫が大の苦手で触ることもできません。
なので、テレビなどで虫を食べているところを見ると、もちろん気持ち悪いなぁと思うのですが、興味はあるんですよね。
興味があるので、そういった話題があれば観るようにしているのですが、何度も見ているうちに、もしかしたら自分も食べられるかもしれないと思うようになってきたのです。
タイの屋台の映像なんか見てるとたまに美味しそうに見えるときがある。
虫の種類にもよりますが。
といっても、日常的に食べたいとかではなく、食べてみたいといった好奇心が強いです。
私は少し変わった子どもだったので、実は子供のころに虫は食べたことがあります。
当時友達と一緒に土を掘り起こして遊んでいました。
アリの巣があって中がどうなっているのかを見るためにアリの巣を掘り起こして遊んでいたのですが、その時にアリの幼虫(白いやつ)を生で食べてみました。
一緒にいた友達は食いしん坊なキャラだったので、美味しいと言って、二匹目も食べてました笑
味の感想は無味無臭で、美味しいわけでもまずいわけでもなかったのを覚えてます。
今後日本で昆虫食は普及するのか??
日本に関しては、今後少子化で人口は減っていくばかりなので、そこまで食料を心配することはないのではないかと思います。
元々は菜食の国です。
それで成り立っていたのです。
個人的な考えなのですが、日本、インド、タイあたりであれば、野菜中心の食事になっても別に無理して虫を食べなくてもやっていけるんじゃないかと思う。
戦争なんかが起こったらやっぱり難しいのかなぁと思うのですが、ある程度平和であることが前提としてあるならば、菜食でもいけるんじゃないかなと。
もちろん、肉を本当に食べたい人は食べればいいと思います。
インドはベジタリアンが最多の国ですが、最近では肉食も増えているみたいですね。
金融とか投資家とか既得権益などが絡んでいるから、世の中の食料事情がおかしくなっているだけであって、そういったものが食に絡んでいなければ、もっといい感じに食料は配分されるのではないでしょうか?
私も色々としっかり考えて今後は食べ物を選んでいこうと思う。
私が見たものはプラーナなのか何なのか 空間に漂う細やかな粒々
昨日不食についてのブログを書きました。
不食の人はプラーナを食べているらしいのですが、このプラーナというのを私も見たことがあります。
ここ数年で経験したことなので、自分が経験したことについて一度はブログに書いてみようと思う。
たぶん5回くらいは見たことがあるのですが、場所は室内、お風呂、神社で基本的には午前中です。
今年に入ってからはたぶん見てないので、記憶を思い出して書きます。
特に何も意識していないときに、部屋の何もない空間に本当に細やかな粒々が無数に漂っているのが見えることがありました。
最初は埃が見えたのかなと思って、こんなに細やかな埃まみれの空気なんか吸ってたら身体にすごく悪いぞ‼と思いました。
空気中に漂っているもので、埃以外の概念が私にはなかったんですよね。笑
今までどんなシチュエーションでどんなに汚い場所にいても、あれほど細やかな埃が空間に漂っているのなんて見たことがなかったので、なんか自分が思ってるのと違うんじゃないかと思いはじめます。
不思議だな~と思ってぼーっと観察していると、埃ではないことがわかります。
埃のような荒くて不規則な感じではまったくないんですよね。
霧でもないし、光でもないし、物質でもないような、なんか微妙な感じなんです。
で、サラサラとしていて別に流れているわけでもなく、止まっているわけでもない。
その部屋で見える何かなんだなと思って、定期的に何回か見てもわからないままにしていたのですが、今度はお風呂で見えるときもありました。
それも午前で、最初は細かい水分が空気中に漂っているのかな?と思ったのですが、じっと観察すると、なんとなくですが水分は水分でまた別にあるような感覚なのです。
なんかすごく妙な感じがして、部屋で見たのと同じものだ‼と思い出します。
なんか、水分とかそういうものであれば動いたり風が入ったりすれば、動いたり流れたりしそうなんですけど、それがないんですよね。
本当にただそこに安定して存在してるだけというかなんというか。
そしてどこで見ても綺麗なんです。
もちろん自分の目の状態とかをまず疑ったりもしたのですが、感覚的な話になってしまうけど、自分の中ではなくて、確かに自分がいる空間内に上下左右に奥行きをもって漂っているという感じなんです。
人の動きとか風などで動くようなものではないのですが、自律的に斜め方向に流れているように見えるときもあり、本当に不思議に思ったのを覚えています。
ここらへんでネットで調べるようになるのですが、なんとなくそんな経験をしている人がちらほらいて、それがなんかスピリチュアル的なものであると同時に目の病気が疑われている人がいることもわかりました。
ただ、この程度で眼科とか行っても、大丈夫ですよと言われて終わりだと思う。
日常生活に支障がなければ問題ないですよという医者が多いのではなかろうか。
眼球というか視界の中に何か動くものがあって、それが目の動きに合わせて移動するやつはたまにあるんですけど、それとはまったくの別物です。
あと、白血球が見えているというのも、可能性としてはあるかなとは思ったのですが、明らかに自分の中で起こっている事というよりは、空間に漂っている感がすごく強いので、違うんじゃないかなと思います。
最後に見たのは神社です。
結構広かったのですが、建物などがない木々が茂っている場所があったのですが、その空間だけまたうっすらとした霧とはまた違うさらさらとしたものが漂っているのが見えました。
最初は花粉なのか、木から何か粉みたいなのが出ているのかと思ったのですが、冬になる手前だったので、よくわかりません。
神社内の他の空間では見えなかったのですが、そこだけうっすらと漂っていたのです。
一緒にいた人はそれが見えているかどうかはわかりませんでしたが、「空気が違う」といってすごく感動していて、その神社がとても気に入っていたようです。
私は漂う花粉を目で見たことがなかったし、あれはなんなんだ?という疑問と、やっぱり綺麗な空間だなという気持ちで歩いていました。
今思えば、部屋で見たものと同じだったのではないかと思います。
そして、つい最近不食について色々と調べていたら、プラーナを食べる人がいるということを知ったので、色々と思い出していました。
私がもしその経験をしていなければ「プラーナを食べる?なんだそれ意味わからん」となっていたことでしょう。
ただ、あれはきっとそうなんじゃないか?という経験をしているおかげで、その意味をすんなりと受け取ることができたのです。
それから、世の中には目に見えないものやまだまだ知らない事がたくさんありますが、こういった関連から色々と調べてみるきっかけにもなりました。
例えば最近何かと目にすることが多くなったフリーエネルギーについてなのですが、何もないはずの空間に、人間が見えないだけで実はエネルギーのような何かが漂っているのならば、全然不可能なことではないのだな、というそういった思考ができるきっかけにもなりました。
不食の人は何を食べているのか
以前不食についてのブログを書きました。
ここで書き忘れたことがあるのですが、それは不食の人は何を食べているのか?ということ。
私は不食についてまったく詳しくないので、調べていたところ
・太陽のエネルギー
・宇宙のエネルギー
・プラーナ
この三つが出てきました。
太陽のエネルギー
インドの有名な不食の人は太陽からエネルギーをいただいているのだそう。
太陽を見つめることによって、食べなくてもエネルギーを得られるのだという。
常識的には考えられないことですが、最近不食以外にもこの「太陽」というものに思うことが多々ありまして、私的には納得するものがあるのです。
どうやら太陽を直接見つめるのがいいらしいのですが、これを純粋に人にすすめる人はいませんね。目を悪くする可能性があるからです。
私も子供のころに大人に太陽を直接見てはいけないよとよく注意されていましたが、実は太陽を直接眺めていることがありました(笑)
何かに影響されたわけでも、誰かに言われたわけでもまったくなく、ただなんとなく(?)その行為をしていたのです。
何か理由があったわけでもありません。
あるとしたなら好奇心だと思います。
幸い目がおかしくなることはありませんでした(視力が悪くなり始めたのは、大人になって事務仕事でパソコンを使い始めた時と、土ぼこりのある汚い現場で働き始めたときです)。
宇宙のエネルギー
実にスピリチュアルな響きですが、太陽と同じように宇宙にある無限のエネルギーをいただくというものです。
これに関しては、私はいまいちピンとこない。
なんとなくはわかるのだけれど、たぶんこれはもっと何か進んだ人むけかもしれません。
プラーナ
なんか不食の人はプラーナを食べてるらしいです。
プラーナとは、空気中に見える細かい粒子みたいなやつです。
埃でも目の錯覚とか脳の問題とかでもなく、プラーナというものがあるらしいです。
そしてそれが実は私も数年前から突然見えるようになりました(笑)
ずっと見えるわけでもないし、見ようと思ったときに見えるわけでもないです。
ただ、ふとしたときに見えるっていうただそれだけなのですが、それがすごく不思議なんですよね。
それで一体何なんだ?と、たまに調べたりなんかしてたら、きっとこれなんだろうなというのがプラーナでした。
東洋的な言葉でいうと「氣」らしいです。
語ると長くなるのでこれについては機会があればまた別でブログに書こうと思う。
不食といってもまったく食べないわけではない
不食を実践している人は、その言葉通りまったく何も口にしていないわけではなく、フルーツだったり、流動食だったり、ナッツ系だったりを摂取しているそうです。
(本当にまれに何も食べず水も飲まない人はいるみたいです)
私も、この不食という概念を知り、興味がわいて自分も向いてるかもなと思い始めたところですが、今は不食というよりも少食といった表現が妥当かなといった感じです。
ちなみに長い時間食べなかったあとに食べるご飯はやはりとても美味しいです。
ただ、前みたいに食べないことで不安になったりイライラしたり、他の人が食べてるところややテレビを見て欲望にかられることはなくなりました。
赤字になってもメルカリに出品する理由 私の場合
以前は頻繁にメルカリに出品していましたが、物が減って、さらに買わなくもなったので最近は出品すること自体が極端に減りました。
それでも何かと売りに出しているのですが、現在はどのくらい利益がでるのかを考えて売ることはやめました。
以前は利益が出ないのであれば、売りには出しませんでした。
そのお陰で結構なお金になりました。
それが、今では手数料や送料などを差し引くと赤字になる場合でも、出品して売っています。
赤字といっても、何十円、数百円レベルなのですが、それでも出品する労力を考えると、なぜ?と思うものでしょう。
その理由は簡単で、使えるものを捨てるのがもったいないという、ただそれだけの理由です。
これはもしかしたら断捨離をした境地なのかもしれません。
一個一個のものを大事にしようという気持ちが芽生えたのです。
さすがに捨てたほうがいいものは、捨てていますが。
しかしゴミがでないということは素晴らしいことであります。
あと、暇なのもあると思います(笑)
まあ、自分の中では忙しいつもりなのですが、赤字になるようなものを売る心の余裕というものがきっとあるのでしょう。
メリットがあるとするならば、高評価が増えるということです。
現在300品以上出品して、悪い評価はされたことがありません。
あと、純粋に喜んでもらえるのが嬉しく、気分がよくなると。
そんな安く出品して怪しまれないのか?
出品者に利益がないのに売るというのは、怪しく思う人もいるかもしれません。
そこらへんはなんとなく出品するものの説明などを読めばわかるものではないかと思います。
頭かち割れるかと思うほどの悪夢を伴う頭痛が吐いたら治った話
※少し重い内容なので閲覧注意
数週間前に久しぶりに頭痛がありました。
私はもともと頭痛もちではあって、ここ数年は頻度は減ったなと思うのですが、そのかわりにたまに起こる頭痛が、死ぬんじゃないか?と思うレベルの痛さなのです。
この前の頭痛は本当にひどかった。
頭痛も頭全体が痛いとき、額が痛いとき、片側だけ痛いとき、後頭部が痛いときなど色々あるのですが、そのときは思いきり額で、それがもうかち割れるんじゃないか?と思うほどで、額を抑えながらのたうち回ってました。
頭痛薬も、たぶん飲んだような気がするのですが、全然効かなかった記憶です。
さらに、起きているのに悪夢を見て、それがやけにリアルで、言葉にするのも恐ろしいほどの世界のあらゆる不幸が脳内で流れ続けました。
そして手足は痺れ、涙が流れてくるのですが、それが頭の痛みからなのか、悲しみなのかわからないようなもので、飢餓感とか痛み苦しみ悲しみ憎しみ全部混ざったような感じで本当に最悪でした。
とにかくもう本当にこのまま自分死ぬんじゃないか?と思うほどの痛みでした。
^^;
極めつけに男性の野太い声で「逃げるな」という声が脳内で聴こえ(やばいですよね^^;)、その後ウクライナの負傷した遺体が次々と脳内で流れ、その後ぶわっと吐きました。
本当、自分おかしくなったんじゃないか?と思うような頭痛でした。
驚くことに、吐いたら治ったんですよね。
今までに頭痛で吐いたことはありません。
吐くのは苦手で、できる限りは吐きたくない性分なのですが、今回はあっさり吐きました。
気持ち悪さは何時間か続きましたが。
調べたら、吐いたら頭痛が治るという人は結構いるようです。
その時期ロシアが侵攻を始めた頃で、頻繁にウクライナの情報を観ていたので、その影響が出たんじゃないかと思います。
私は影響を受けやすい体質で、体調が悪くなっていたので、ある程度知ったらもうあまり意識に入れないほうがいいかなと思っていたころでした。
死ぬんじゃないか?と思うレベルの頭痛はこれで二回目(一回目は一年前)なのですが、たぶんこれは頻繁に起こるものではないとは思います。
これが一か月に一回とかなら病院に行くレベルですが、世界情勢などの影響ではないかと思います。
世界の平和や不幸は自分とは無関係ではないのだなと、身体で感じた経験でした。
色々と後戻りのできない世の中です。