映画『ありあまるごちそう』感想 何かがおかしい世の中だと思うのはなぜ?
ここ数年アマプラで色んな映画を観ています。
ジャンルは様々で、アニメが多いですが、邦画や洋画、ドキュメンタリーなんかもたまに観る。
今回は『ありあまるごちそう』という映画を観てみました。
“歪んだ食の世界経済”をテーマに、工場式農業を扱った2005年のドキュメンタリー映画です。
世界では120億人分の食料が生産されているが、同時に10億人が飢えに苦しんでいるとこの映画でいわれている。
薄々おかしいだろうと思っていたのは、人類が食っていけるだけの資源と技術と生産力があるにも関わらず、いまだに貧しい生活をしいられる人がいるのはなぜなのだろうということ。
少し調べるとすぐにわかるのですが、資本主義の歪みがそこにはある。
そのことに関して今まで、知っても見ないふりをしていたのが、私の中ではもう見ないふりをする時代は終わりつつあるのかなと感じています。
映画の中では、まだ食べられるのに大量に廃棄されるパン(年2000t)、一年中乱獲する大型漁船、EUやアメリカの農家への多額の助成金(その影響は他国の農家などへの打撃)などについて映されています。
映画の中で私が衝撃を受けたのが、やはり養鶏場での鶏の扱いについて。
このことには以前にもブログを書いたことと、感じるものはまったく同じであります。
このブログではひよこが大量に生きたままシュレッダーで粉砕される動画を観てしまったあとに書いています。
そして今回『ありあまるごちそう』ではひよこはもちろん、大量の鶏が狭い環境で飼育され、間もなくは大量に食肉となるべく機械的に処刑されていく映像を観ました。
あまりに機械的に命が人間(食にプラスして利益)のために屠畜されていくものだから、なんというか、言葉も何もない。
これに関して以前観た映画で印象深い部分があります。
自給自足的な生活をしている娘の話なのですが、この映画の中では、飼っていた鵜を自分の手で殺して食べるというシーンもあるんですよね。
機械で大量に殺すのも、人間の手で殺すのも、どちらも動物を殺して人間が食べるということに変わりがないのですが、それでもその奥には何があるのか、感じ方というものがやっぱり違います。
「利益」があるのか、それともそのまま「命をいただく」ということだけがあるのか。
前にも何度か書いているのだけれど、私たちは自分の口にするものが、どのような経緯をたどってきているのか、ということをあまりにも知らなさすぎるのだと思う。
知りたくもないという気持ちもある。
とても残酷であることを知っているからです。
しかし、その「なんか引っかかるもの」というものは、もうそろそろ無視することのできないものとなっています。少なくとも私の中では。
こういった話題が出ると、
「だからこそ、いただきますを言って残さず食べることは大事だ」
ともっともらしいことをいう人が出てくる。
まあ、確かにそれは当然なんだけど、なんとなく問題から目を逸らしている感が否めない。と私は思う。本質からずれているというか、違和感を感じるんですよね。
だからといって、個人が今すぐに何かを大きく変えられることはないとも思います。
私自身も資本主義経済の大量生産大量消費の中にどっぷり浸かってきたし、今も浸かっている。しかも貧困層として悪循環の中にいます。
絞りだして考えるとしたら、個人がこのことに気づき始めて、生活の中の何かから少しずつ変えていく。
何を選ぶのかを自分で考える。
“生まれてからそうだったから仕方がない”以外の選択肢を自分の手で増やす。
今の私にはこのくらいしか思いつきません。
あとはやはりブログで正直な思いを書き出すのも、決して無意味なことではないのだなとも感じています。
正直に書くと私が「ビジネス」「仕事」「経済」「お金」こういった言葉が嫌いな理由がここにあります。
嫌いなんです。
一時期は馴染もうと努力していた時もあるんですけど、やっぱり駄目なもんは駄目だ。
これが最近出た答えです。